RED GARDEN #2、3、4、5、6


つまり、4人の懊悩し呻吟にあえぐ姿を、本当に有効なものにするには
外部から設けられた限定、[否応なく殺され、再生させられたこと]
の、向こう側をいかにして描けるのか、だと思います。


現在彼女らの手にある生って、周到な周囲からの道具立て
召集、戦闘、死、連帯責任等、だけではその動機を満たしていませんから。


それだけのためには生きていない。


それは例えば、今まで一人でいることが多かったクレアが
脱落しそうな仲間に向き合おうとし、
グレースの一員として振舞っていたケイトが、
不良と思われていた友人と行動を共にする。
それまでそれが当たり前だった弟たちとの生活が
たやすく失われかねないと思い知らされるローズや、
母の苦しみの存在にふと気がつくレイチェルなんですけど。


いずれも、眼前の生が、何の苦慮もなく失われるものだと
[否応なく殺され、再生させられたこと]で理解し、あらわれた変化です。


多分、見ず知らずの他人が、後戻りできないような知り合いかたをする。
同時に苦役を課せられて、どこかに進んでいかされる。という構図は
当初から、ある主人公たちに相互理解と成長を強いるという
企図のもと作った舞台だと思うんですけど。


そのように、いま課せられている生だけではなく
上記のような、そうあったかもしれない生
これから手に入るかもしれない生を描くことで
生きることのやむにやまれなさ、殴打し撲殺することさえ
その中に含まれるような必死さが、もっと鮮明になると思います。